Column
「答えのない答え」は、ホントにみつかるのか?【電気教育、言いたい放題10】
電気科教員の「はてしないグチ」
2024.10.09
第10言「松尾芭蕉は忍者だったなんて説もあるよね」
子どもが中学生のとき、夏休みの宿題に手を焼いたのを覚えている。
その当時、1日中、クラブ活動をしているのに十分な時間があるのか? 特に、博物館の見学報告書なんてできるわけがない。しょうがない。代理で見学して報告書を書いたり、読書感想文のゴーストライターになったりしたものだ。
筆者自身の経験では読書感想文、理科の自由研究、美術では「税に関するポスター」や「電波障害予防のポスター」などなど、ほぼ丸投げ状態だった。
「成績に入れるからな!」と言われ、しぶしぶ取り組んだのを覚えている。課題図書が出されたところで「この本のおもしろいところはココだよ」とか「読書感想文は、このように書くと文章力、思考力、読解力がつくぞ」といった指導は皆無であった。
理科の自由研究なんかでも同様だ。「こんな研究方法がある」「こんな観察をするとおもしろい」といった指導はあるはずがない。そもそも家庭に実験装置がない。小中学生に税金や電波障害の知識はないのに、どうやってポスターを描くのか……。
それでだ。せっかく知恵を絞って取り組んだ宿題を提出しても、教科担当は口をそろえて「提出に値しない!」と、2学期最初の授業は延々と続く説教であった。
これがニッポンの教育の悪いところかもしれない。このような状態で探求活動なんて本当にできるのか?
あるとき、探究活動が有名な進学専門高校のテレビ番組を大学生の子どもと一緒にみていた。すると、子どもから「探求学習の「いい面」を放送している内容だけど、夏休みの自由研究を1年間かけて、予算のある学校は大学や研究所と連携しているんでしょう」との感想が出てきた。
思わず「いいところに気がついたな!」と返してしまった。「探求とはみつけることなり」なんて建前で、本当に答えのない答えをみつけられんのか?
そんなことを考えていると「文系っていいなぁ~」と率直な感想が頭をもたげる。いつまでたっても「邪馬台国は近畿か、九州か」「芭蕉の「しずかさや岩にしみ入る蝉の声」の「セミ」はアブラゼミか、ニイニイゼミか」の明確な答えを出さないで議論を楽しんでいる。そんなことはないのに、そんなことを勘繰ってしまうのだ。
いっそのこと、課題解決として霊媒師を呼んだらどうなんだろうか。
「アナタの名前は?」
『んっ、卑弥呼じゃ!』
「お住まいは近畿ですか? それとも九州ですか?」
『う~ん、あの山の稜線や川や野原はまぶたに映るが、当時は近畿とか九州とか土地名はなかったんじゃな』
「アナタの名前は?」
『んっ、松尾芭蕉じゃよ』
「あの俳句のセミはアブラゼミですか? それともニイニイゼミですか?」
『そんなもん、やかましいセミの声がしただけじゃ』
これが現実だったりしてね。
これの近い例として、アニメ『巨人の星』で「飛雄馬、あの巨人の星を目指すのだ!」というセリフより、マニアックなファンは話の季節や部屋の間取り、玄関から外に出た方角から、夜空に輝く星座は「〇〇座に違いない!」といった変化球的な説を唱えている。
これに対し、何年か前に読んだ週刊誌で、原作者は「締め切りに追われて星座のことなんて考える余裕すらなかった」とコメントしていた。真実は意外なところにあるのかもしれない。
ネットの出現により、いろいろな説について討論できる場ができたことで、「なんで、そこ?」という説が出てきている。例えば「聖徳太子は実在しなかった」なんてのも……。それなら、十七条憲法はだれがつくったのか? 冠位十二階を制定したのは? 法隆寺を建立したのは…… って、もちろん、それは宮大工でしょ! チャンチャン。おあとがよろしいようで。
プロフィール
今出川 裕樹(いまでがわ・ひろき)
1960年生まれ。大学卒業後、電気科の教員として工業高校に勤務。時事問題をぶっこみながらポイントを説明するユニークな授業を展開。その軽妙なトークは、爆笑のうずを巻き起こしつつ、内容を理解できるということで生徒に絶大な支持を得ている。50歳を前に電験三種に合格し、現在、二種に向けて鋭意勉強中。